フライング・ダッチマンの異名を誇り、世界20億人がその名を記憶に残しているヨハン・クライフ。
世界に誇るオランダ人としてレンブラントやゴッホに劣らずその名を世界にとどろかせた巨星が、昨日この世を去りました。
サッカーの歴史を語るには欠かせない人物、ヨハン・クライフとは、いったいどんな人物だったのでしょう?
ヨハン・クライフのプロフィール
名前:ヨハン・クライフ
愛称:フライング・ダッチマン/エル・サルバドール/エル・フラコ/スーパースター
生年月日:1947年4月25日(68歳没)
出身地:オランダ北ホラント州アムステルダム・ベトンドルプ地区
サイズ:身長・176cm/体重・67㎏
職業:サッカー選手/指導者
ヨハン・クライフは、オランダの首都アムステルダムの東に位置するベトンドルプ地区という労働者の街に、青果店の息子として生を受けました。
裕福な幼少時代ではありませんでしたが、2歳年上の兄とともに毎日ストリートサッカーに明け暮れて技を磨いていたといいます。
彼の生家から100mほどの場所には、アヤックスのスタジアムがあり、幼いヨハンは頻繁にそこへ出入りしているうちに、選手やスタッフから可愛がられるマスコット的存在になったそうです!
こちらが現在のアヤックススタジアムです!
クライフは選手として、監督として、生涯をかけてこのアヤックスと深いかかわりを持つことになります。
10歳でアヤックスの下部組織に入団したクライフは、16歳の時にはトップチームへの昇格とともに、プロ契約を結びます!
デビュー戦はFCフローニンゲンとのアウェイ戦いで、チームは負けてしまいますが、クライフは初得点を飾りました!
試合の度に素晴らしいプレーを見せてサポーターの支持を得ていったクライフ。1965年1月には、リヌス・ミケルス新監督との運命の出会いを果たします!
リヌス・ミケルス監督はトータルフットボールの戦術を実行に移すため、選手たちに過酷なトレーニングを課していきました。
トータルフットボールとは、個々の選手が思いのままにポジションチェンジをしながら渦を巻くように攻めていくという戦術で、選手全員がオールラウンドプレイヤーでないと成立しないことから、実現不可能だと思われていました。
しかしミケルスは、当初スーパーサブに指定していたクライフを軸に、トータルフットボールの戦術を実現させて勝利を重ねていったのです。
1965年のリーグから1972年まで、チームを6度の優勝に導いたクライフは、個人でも1966年(33得点)と1972年(25得点)にリーグ得点王の座を勝ち取っています!
1973年には元モデルの妻からの助言もあって、バルセロナへ移籍したクライフ。移籍金は600万ギルダー(日本円にして5億7000万円!)当時の世界記録でした!
バルセロナに移籍後は、デビュー戦を4-0で勝利し、クライフはこのうち2得点を上げています。
その後も活躍をつづけ、1974年にはレアル・マドリードを5-0で下す歴史的試合に勝利を飾ると、世界中にヨハン・クライフの名がとどろきました!
当時のスペインは独裁国家でしたが、クライフの活躍とリーグ優勝に歓喜した国民が民主化のシンボルとしてクライフに注目し、彼は救世主とたたえられていました。
バルセロナでその人気を不動のものにしたクライフでしたが、新しく就任した監督とうまくいかず、一時はバルセロナを退団するとまで公言していたクライフ。
世界的ヒーローのその言葉にサポーターたちは新監督の解任を迫り、結局クライフはバルセロナに残留し、一度はチームを去ったミケルス監督が返り咲きます。
この時期が、彼の転機だったのかもしれません。
ミケルス監督が率いるバルセロナは敗退を重ね、優勝を逃し、クライフはプレーよりも、審判と口論する姿などにスポットを当てられてしまうように。
1978年に現役引退を表明したクライフは、CBインターナショナルを設立し、不動産取引や貿易関係の業務を取り扱う実業家へと転身を遂げました。
しかし、事業はパートナーの行動によって失敗してしまい、多額の借金を背負ってしまったクライフは、アメリカのニューヨークで現役復帰を果たします!
彼はサッカーをするなら、どうしてもミケルス監督の元でやりたかったのでしょうか?
アメリカの人気チームニューヨーク・コスモスから声がかかったにもかかわらず誘いを断り、ミケルス監督の率いるロサンゼルス・アズテックスと契約を果たします。
同郷の選手たちも所属しているアズテックスでリラックスしながらプレーできたというクライフは、優勝こそ逃しますが、北米リーグの年間最優秀選手に選ばれます!
その後はワシントン・ディプロマッツ(1980)レバンテ(1981)を渡り歩き、34歳の時に古巣のアヤックスへ戻ってきます!
アヤックスでは、34歳という年齢もあり、チームのアシストというポジションでも活躍したクライフですが、チームから引退を迫られたことで確執が生まれ、1983年には、アヤックスを去ることになります。
選手時代のプレースタイルは?
ヨハン・クライフのプレースタイルは誰にでもまねできるものではありませんでした。
ミケルス監督の提唱したトータルフットボールを初めて実現させたのがクライフと言われているほどで、
通常はディフェンダー/ミッドフィルダー/フォワードと、チーム内で役割を分けられるのですが、クライフは、そのすべてのポジションで担う役割をこなしていた貴重な選手だったのです!
ディフェンダーは相手の攻撃をカットし、仲間にパスを送る役割。ミッドフィルダーはチームの司令塔のような存在で、防御と攻撃をつなぐ役割。そしてフォワードはチームの花形、ゴール前で得点を挙げていく役割を担っています。
クライフのプレースタイルは時に攻撃、時にカット、そして時にアシストをしながら変幻自在にポジションを替え、チームを幾度となく勝利に導いたといわれています!
そして、現代の若者たちがサッカーを習うときに必ず教えられる技・クライフターン。
実際に動画で解説しているものを発見したので貼っておきます↑
覚えたら、一生使える最高の技術とも言われていて、サッカー選手を目指すうえで欠かせない技術ともいわれています。
その名のとおり、この技の開発者はクライフです!
監督になってもすごい!
ヨハン・クライフがバルセロナの監督に就任したのは1988年でした。
そのころのFCバルセロナは、エル・ドリームチームと呼ばれてサポーターたちに愛され、守備的な戦術が主流だったサッカーの試合を、攻撃的で、魅力ある試合に変えたといわれています!
クライフはこのエル・ドリームチームに所属していた8年間で、10個のタイトルを獲得しています!
・リーガ・エスパニョーラ 優勝4回
・コパ・デル・レイ 優勝1回
・UEFAチャンピオンズカップ 優勝1回
・UEFAカップウィナーズカップ 優勝1回
・スーペルコパ・デ・エスパーニャ 優勝3回
クライフは監督になってから、ベンチで必ずと言っていいほど煙草をくわえていましたが、
心筋梗塞を患ったために医師から煙草をやめるよう言われてしまったんですね。
その後のクライフがどうなったかと言うと……
チュッパチャップスをなめてます♪
クライフは禁煙のために何気なく口にしていたこのチュッパチャップスですが、全世界にこの姿が中継されたことで、売り上げが低迷していたチュッパチャップスが全世界で爆発的にヒットし、社会現象にもなったのです!
息子は?
ヨハン・クライフの息子は、マンチェスターユナイテッドなどのチームを経て現在は指導者として活躍しているジョルディ・クライフさんです!
名前:ジョルディ・クライフ
生年月日:1974年2月9日(42歳)
出身地:オランダアムステルダム
サイズ:身長・180cm/72kg
小柄だといわれていた父に比べて、背が高いですね!
息子のジョルディは、父がバルセロナで選手として活躍している時に誕生し、父がバルセロナの監督に就任した時にトップチームに昇格したサッカー選手です!
やはり親子そろってサッカーの才能があるんですね!
1993年から2010年まで現役選手として活躍しましたが、父親が偉大過ぎたために周囲からの期待が重圧となり、思うように力を発揮できなかったのではと言われています。
名言!
‘ボールを動かせ、ホールは疲れない’
‘サッカーでは、ダメな奴ほど走り回る。走る量が多いなんて自慢している奴は、ヘタクソの証拠だ。だから相手を走り回らせて体力を消耗させろ’
華々しい活躍で、人を魅了したクライフでしたが、試合中にボールを支配している時間はそれほど長くなかったといいます。
オールラウンドプレイヤーだったのだから、ピッチを駆け回っていたのではないかと思いますが、実際は、そうではなかったようですね。
‘私は間違ったことはない、間違うことは私にとって難しいからだ’‘
‘大量にリードしているときはわざとシュートをバーに当てる。そのほうが盛り上がるからね’
勝利することだけにとらわれず、サッカーを楽しむことができる余裕をもてたのは、やはり彼が天才だったからでしょうか?
韓国批判についても!
2002年日韓FIFAワールドカップ。
日本でも盛り上がりましたが、共催国の韓国で、とんでもない試合が行われたことを知っていますか?
イタリア対韓国の試合の中で、韓国のプレイヤーが度重なる暴力を起こしたにも関わらず、審判は一度たりともイエローカードを出しませんでした。
いわゆる、審判買収疑惑です。(っていうかやってますね。)
デルピエロ選手はそこで顔面にエルボを食らい、大量に流血し、マルディーニ選手は後頭部にキックを食らいます。
イタリアがゴールを決めてもノーゴールと判定された挙句、スタンドには選手たちに見せつけるかのようにAGAIN1966の文字が……
イタリアは、1966年に北朝鮮と戦い破れているのですが、AGAIN1966というその文字は、その試合のことを蒸し返してイタリアの士気を下げようと目論んでいたのでしょうね。
どちらにしても、スポーツマン精神のかけらも感じられないワールドカップとして、多くのサッカー関係者が苦言を呈しました。
‘W杯の恥さらし国家。韓国は史上最低の開催国として歴史に名を刻むことだろう’
クライフはこのように述べました。
選手として、指導者としてサッカーの歴史にその偉業を刻み付けたヨハン・クライフさん。最後は家族に囲まれ、息を引き取ったそうです。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。