真田丸31話のあらすじ
※ネタバレしてます!
いよいよ秀吉(小日向文世)の死期が近づいていました。
石田三成は秀吉と話し合い、遺言を作ります。
老衆(おとなしゅう)=徳川・前田・宇喜多・上杉・毛利
奉行衆(ぶぎょうしゅう)=浅野・大谷・石田・増田・前田・長束
遺言の内容は5人の老衆と5人の奉行衆で秀頼公を支えるというものでした。
遺言の内容は老衆だけでは大事なことを勝手に決められないというもの、三成はその遺言に老衆たちの花押をもらいに行きます。
最初に花押をもらいに行ったのは、徳川家康(内田聖陽)の元でした。
石田三成が帰って行った後、阿茶局と本多正信が家康をあおります。
「ついに天下を取る時が来ましたね」
「いっそ、(遺言を)反故にしてしまいますか?たやすいことでございますよ」
家康が連絡もなく秀吉の元を訪れました。
家康は亡き信長の鎧を差し出し、秀吉に筆をとらせました。
「殿下にお願いがございます……秀頼のこと、成り立ち候ように、衆として頼み申し候
このほかには、思い残すことなく候と」
朦朧としている秀吉に、新たな遺言を書かせる家康。
老衆5人の名をしたためさせます。
家康は秀吉に、自分に都合のいい遺言を新しく書かせたのです。
そのことが三成の耳に入ると、憤った三成は新しい遺言に、奉行衆のことも書き足すよう秀吉に無理強いします。
一方上田の真田家では、楽隠居を決め込む昌幸に、出浦が問うていました。
「武田の領地を取り戻したくないのか?いつでも用意はできておる」
伏見では、家康が再び秀吉の元を訪れていました。
信繁が付きそうと、家康は先日の遺言の件を謝りました。
そして、弱気になったかのように心の内を明かし始めます。
「生き延びられれば良いと思っておるうちにここまで来た。戦は大嫌いじゃ。戦場で命からがら逃げ惑うのはもう御免じゃ。殿下が亡くなられて、再び世が乱れては元も子もないしのう」
その後、秀吉の容態が悪化し、ずっと秀吉に会わずにいた茶々と秀頼が秀吉の部屋に行きました。
秀頼が「父上」と声をかけると、ずっと寝たきりの秀吉は目を覚まします。
そして、うわ言のように「秀頼を頼む」と繰り返すのでした。
夜……血だらけの少年の幻を見た秀吉は三成にしがみつき「家康を殺せ」と命じます。
三成は上田城に向かい、真田昌幸にそのことを告げて助力を願い出ますが、昌幸はこんな言葉を口にします。
「今の言葉、聞かなかったことにいたします。もし明日の朝、徳川内府が亡くなったという言葉を聞いたとしても、わが真田は一切あずかり知らぬこと」
表向きは断っておきながら、昌幸は忍びの出浦を刺客として徳川家に送り込もうという魂胆なのです。
出浦は単身徳川家に乗り込みました!
ちょうどその頃、徳川家で家康と向き合っているのは、真田信幸でした。
元妻おこうと、本多忠勝の娘稲姫に同じ時期に子供を産ませてしまったことを、舅である本田忠勝に言い出せずにいた信幸。
信幸は家康に舅との間に入ってもらい、そのことを告げようとしていたのでした。
しかし、話の最中不審な音に気付いた信幸は、家康に忠告すると、本田忠勝が天井裏をなぎなたで突きます!
出浦が天井裏から逃げ出すと、煙幕を張って逃げようとしますが、廊下で信幸と鉢合わせた出浦が驚き立ち止まり、本田忠勝の刀が出浦に致命傷を与えました!
息も絶え絶えな出浦が真田家に戻った同じ頃……伏見では太閤秀吉がついに、その人生を終えようとしていたのです。
感想や視聴率!
真田信繁の存在感のなさ。 「この人は一体何してるの?」と思わざるを得ないし、主役だということを忘れてしまいそうになります。 たしかに大阪ではこれといった成果をだしていないから、仕方ないといえばそうなのだけど
確かに、信繁の出番が少なすぎますね。
だからと言って飛ばしてはいけない重要なシーンばかりなので、なんだか無理やり信繁をねじ込んでいるようにも見えました!
真田丸31話の視聴率は17.3%でした!!
見逃した人は・・・
出浦昌相の最期がかっこいい!
真田丸の初期からそのカッコよさで根強い人気のあった忍びの出浦が、ついに最期を迎えてしまいましたね……。
福山雅治さん結婚で一時流行したましゃロスという言葉が使いつくされたと思っていましたが、出浦ロスで悲しむファンは少なくないでしょう……。
忍者という難しい役柄を、重みのある演技と内側からにじみ出るワルっぽさでカッチョよく演じていたのは寺島進さんです!
名前:寺島 進(てらしま すすむ)
生年月日: 1963年11月12日(52歳)
出身地:東京都江東区
血液型:A型
サイズ:身長・165cm
刑事モノや極道モノでアウトローな雰囲気の役を演じさせたら必ずハマりますよね!
真田丸で演じた出浦昌相(いでうらまさすけ)という人物は筆者も知らなかったのですが、忍者衆の頭だったようですね。
三谷幸喜監督は出浦を、「一番人を殺してきた男」という風に演出したそうです。
孤高の殺し屋という一面がありながら、真田昌幸に見せる忠誠心や友情は多くの人の心を熱くしたことでしょう。
今回のお話で出浦は息を引き取っていますが、史実はどうだったのでしょう?
出浦昌相は1546年から1623年に抱えて生きた武将で、武田信玄-織田信長(森長可)-真田昌幸と時代の流れに乗って仕える相手を変えながら、群馬県の東吾妻町で78歳の生涯を終えました。
真田昌幸に仕えていた頃は、岩櫃城の最後の城代になったこともあり、北条を攻めた忍城の戦いでも大活躍した名将で、晩年は松代藩(長野県)で忍者の頭領となり大出世を遂げたそうです。
真田丸では史実よりもかなり早めの幕引きだったようですね。本当は78歳での大往生だったようです。
たった一人で大勢の敵に向かっていく姿!かっこいいです!!
この出浦昌相という人物は、真田十勇士のなかでも猿飛佐助に次いで力のあった忍者・霧隠才蔵のモデルとなった人だという説もあります。
霧隠才蔵は石川五右衛門の兄弟弟子で、「風神の門」(司馬遼太郎)や「霧隠才蔵」(火坂雅志)などの物語の主役になったり、その人生が映画化されたりと人気のキャラクターでした。
霧隠才蔵は大阪城落城後に信繁の息子の大助とともに豊臣秀頼を救うという大活躍するというエピソードがありますが、出浦ファンとしてはこの辺まで頑張って生きていてほしかったでしょうね!